体協のあゆみ


戦前

塩釜のスポーツは、青年団を中心に近隣町村も含めたかたちで盛んに行われた。

昭和16年

太平洋戦争勃発と同時にスポーツ活動は一時途絶えた。しかし敗戦による物資不足、食糧難のさなか、戦前活躍していた人々が復員。この世情混乱している時、「日本を立て直すにはスポーツで」とスポーツの復興活動が始まった。

昭和21年10月

宮城県陸上競技協会及び宮城県体育協会の創設者の一人であった佐藤賢助氏が、塩釜市体育協会の結成に手を染めたのである。佐藤氏は十余人のスポーツ愛好者に呼びかけ本協会を設立した。

初代会長には佐藤賢助氏、副会長には遊左寿助・三浦芳次郎の両氏、及び理事長には鈴木久直氏が選任された。

当時は陸上競技部・相撲部・水泳部・庭球部・野球部・剣道部・柔道部・弓道部・漕艇部等の部制をしき各部長をもって塩釜市体育協会の理事をして各部の育成と強化に力を入れ運営を行っていた。また同月には、市西部地区の上の原において第1回塩竈市民大運動会が開催され、後に昭和46年まで毎年開催されることになった。

昭和24年 5月

ベルリンオリンピック第4位入賞の村杜講平氏が来塩し当地で模範演技した。この運動会は、協会創立を記念し「市民の士気高揚」の為に企画された。市民運動会の参加者も市内の小中学校や町内会等、様々な方面から参加し各応援団つきの盛大な市民大運動会であった。

昭和24年10月

宮城県陸上競技選手権が開催され塩釜の選手が大活躍した。

昭和27年

第7回国民体育大会宮城国体では塩釜出身選手が卓球一般男女の部で優勝を成し遂げた。

この国体では聖火旗奉送記念があり塩釜市内では多くの関係者らが聖火を引き継ぎ、沿道の盛んな声援を受けるなど大いに盛り上がりスポーツ塩釜の全盛期だった。

昭和36年 6月

月見ヶ丘に25m公認市民プールが完成した。

昭和39年

東京オリンピックの開催において宮城県から7名の陸上競技審判員が選ばれたが、当市の鈴木久直氏はトラック競技の決勝審判員を勤められたことは本会としても大変名誉なことであった。

昭和40年

第20回国民体育大会岐阜県国体では当協会が文部大臣より栄誉ある表彰を受け、当時会長の佐藤賢助氏が開会式において受賞されたことも塩釜市体育協会がもっとも全盛を誇った時期だった。

昭和51年11月

上の原を基点とした第1回塩釜市断郊競技(マラソン)大会を開催。

昭和53年 5月

理事長の鈴木久直氏が会長、前会長の佐藤賢助氏が名誉会長に推されている。

昭和54年

協会創立以来塩竈市公民館内にあった事務局を教育委員会社会教育課に移されたことを契機に、当協会の規約の改正や役員人事の改選・企画財政委員会の設置など全般的に体質の改善が図られた。

昭和55年11月

体育協会創立30周年記念式典が開催され創立以来本市のスポーツ振興に功績のあった方々の表彰が行われた。

昭和56年

本市に保健体育課が新設され協会と行政が一体となった活動がスタートしスポーツ振興の足がかりができたのである。

昭和61年11月

悲願であった旧上の原グラウンド跡に塩釜市体育館が設置され、体育協会がはたした役割は非常に大きい。

平成 4年 5月

副会長の今野耕次氏が会長、前会長の鈴木久直氏が名誉会長に推されている。

平成10年 5月

副会長の木下清氏が会長に推されている

平成13年 2月

特定非営利活動法人(NPO法人)を取得し、社会的にも公共団体として認知された。

平成14年 4月

塩釜市より体育施設(体育館・温水プール)等の管理運営委託された。

平成16年

副会長の菅原周一氏が会長、前会長の木下清氏が名誉会長、前名誉会長の鈴木久直氏が名誉顧問に推されている。

平成19年 2月

体育協会創立60周年記念式典の開催、記念植樹を行う。

平成20年 9月

副会長の松戸末治氏が会長、前会長の菅原周一氏が顧問に推されている。

平成22年 5月

副会長の志賀重信氏が会長、前会長の松戸末治氏が顧問に推されている。

平成28年

体育協会創立70周年を向える。